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金融庁ならぬ「金融処分庁」と揶揄されるまでに権力が大きくなった金融行政には大いに関心が持たれている
(写真は五味金融庁長官)


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竹中氏は「学者だから」行政手腕を発揮できた?
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金融行政の検証

裁量行政へ先祖返りの金融庁に
処分の透明性を求める声がある!

■業務改善命令を受けた金融機関のトップが頭を下げる姿が目につく。そして、金融庁の論理に業界は怯えているばかりに見えるが――(ジャーナリスト・伊藤博敏)

 日本生命のような業界トップの大企業から名もなき不動産ファンドまで、毎日のように業務改善命令を始めとした行政処分を下すことから、いまや「金融処分庁」という呼び名が定着した金融庁――。その強大な権力を恐れて誰も口には出さないが、処分を受けた金融機関の経営陣には不満が渦巻いている。
             ◇

五味金融庁長官の弁は「裁量行政」の復活?

 ある金融機関の法務担当者が胸の内を披瀝した。曰く、
「数ある業者のなかで、なぜウチが狙われたのかという理由がわからない。処分理由に納得できなくとも抗弁できないし、検査内容を公表しないうえ、(業務改善か業務停止かといった)量刑理由も明らかにしない」
 取材にあたる金融庁担当記者も同じ思いを胸にする。
「記者発表で細かい処分理由は明らかにするんです。日本生命の業務改善命令(7月26日)なら、担当の幹部社員が過去9年間に105件の不正な保険契約解除を行い、そこにはどんな問題があったとかね。でも、なぜそれが業務改善命令なのかという理由は説明しない。日本生命の例なら、『個人犯罪』ということも考えられるが、会社が処分された。その判断基準は金融庁にしかわからない」(全国紙経済部記者)
 しかし、マスコミは問題提起しない。いや、メガバンク、地銀、消費者金融、生損保、監査法人、証券会社、それにファンドまでが行政処分を受け、その記者会見が頻繁に開かれるのだから、発表をそのまま報道するのに手一杯で、内容を精査する暇がない。
 これでは、裁判が開かれて判決は出ても、判決理由が明らかにされないようなものだ。しかし、そうした不満に金融庁の五味廣文長官は常々、こう答えている。
「量刑ガイドラインのようなものをつくるのは難しい。(処分の)決め方を公表すれば、ここを隠せば処分を軽くできるといったモラルハザードを招きかねない」
 一見もっともだが、「ルールブックは俺だ」と言っているのに等しく、いってみれば「裁量行政」の復活である。
 金融ビッグバン以降、金融行政は「事前監視」から「事後チェック」へと監視システムを大きく変えた。
「事前監視」の時代は、金利からサービスの中身まで厳しく制限されるのはもちろん、旧大蔵省に“認知”される金融機関になるのが難しかった。その分、同じ「金融村」の住人になると癒着が生まれ、「ノーパンしゃぶしゃぶ接待」で有名になったように、金融検査は馴れ合いのいい加減なものだった。住人としての認知も検査も旧大蔵官僚の胸先三寸という裁量行政。「事後チェック」への変化には、その反省も含まれていた。
 今は、金融サービスも金融会社の設立も原則自由である。ファンドも金融サービス機関の1つ。そのかわり、事後の監視は厳格にする。物理的にすべての金融サービスをチェックするのは無理でも、裁量行政には戻らないというのは暗黙の了解だった。

今につながる大蔵官僚接待汚職事件

 では、なぜ裁量行政に先祖返りしたのか。それには、創設されて間もないとはいえ、金融庁の歴史を振り返る必要がある。
 金融庁は屈辱の歴史のなかから生まれた。
 民間金融機関の検査・監督業務を切り離し、総理府の外局として金融監督庁が設置されたのは1998年6月。その原因は、同年1月に表面化した大蔵官僚接待汚職事件である。検査に手心を加えてほしいという銀行幹部の要請を入れ、その見返りに接待を受け、住宅融資などで面倒を見てもらった検査官たち。金融監督の権威は地に落ちた。
 自信と信頼を失った旧大蔵省は、検査・監督業務に加え、金融制度の企画・立案部門まで金融監督庁に奪われた。そのうえ「大蔵」という由緒ある呼称も禁じられて、2001年1月の中央省庁再編で財務省となり、金融監督庁は金融庁と改められて内閣府の外局に位置することになった。
 この時、初代金融担当大臣に就任したのは柳澤伯夫氏である。旧大蔵OBの政治家で、金融行政のプロを自認。金融監督庁を所管していた金融再生委員会の初代委員長でもあり、文字通り金融庁を牛耳っていた。
 ところが、この実力大臣は02年9月の小泉改造内閣で更迭され、「小泉改革」を担う竹中平蔵・経済財政担当相が金融相を兼務することになった。原因は、ソフトランディング路線を堅持、いつまでも金融不安を払拭できない柳澤氏への小泉首相の不満である。
 竹中金融相は、すぐにハードランディング路線に舵を切る。05年3月までに大手銀行の不良債権を半減させると謳った金融再生プログラムを立案、そのために不良債権処理を急がせる金融検査マニュアルを策定した。
 銀行界は猛反発したが、厳格な査定による不良債権処理と経営の健全化を“同時”に達成しろという無茶な要求が銀行経営者を本気にさせ、結果として不良債権は急減、銀行株は上向きに転じ、これが市場をリードする形で日経平均株価は上昇、日本経済は最悪期を脱したのである。
「小泉改革」の目に見える形での唯一の成功例といえるのが、不良債権処理の迅速化をもとにした日本経済の浮揚だった。竹中金融相がそれを実現できたのは、素人の学者だったからだ。
 竹中氏の側近が振り返る。
「あのころは、銀行界のすべてを敵に回した気分だった。銀行界だけじゃなく、彼らの陳情を受けた政治家、それに反竹中感情を持つ財務官僚が相乗りして足を引っ張った。でも、気にしなかった。失うものはないし、われわれにはなんのしがらみもないしね」
 金融のプロでなく、政治家でなく、しがらみもないから断行できたという説明は非常にわかりやすい。そして、金融庁の官僚はそこにシンクロした。
「竹中大臣のもとで、これまで指導先だった金融業界が、検査を通して対峙する存在となった。それを繰り返すうち、接待汚職事件の後遺症は薄れ、検査を通じて金融機関を正常化することに存在意義を見いだすようになった」(金融庁幹部)
 04年10月、UFJ銀行の検査忌避を刑事告発したのは、彼らなりのケジメとなった。接待汚職事件のきっかけは、旧三和銀行のMOF(大蔵省)担当が特捜検事に細大漏らさず証言したことである。その旧三和の同じ幹部が合併後に引き起こした検査忌避事件だっただけに、金融庁は強硬に対応、変身した姿を“私怨”とともに見せつけた。
 結局、UFJは三菱東京に吸収され、3メガバンク体制になった。05年3月期の大手行の不良債権比率は大幅に低下、銀行行政は「平時」に戻った。これで金融庁はとりあえずその役割を終えた。だが、「組織維持」とそのための「仕事の創設」は官僚の本能である。
 利用者保護―金融自由化のなかで新しいサービスが次々に生まれた。なかには被害者が発生するような怪しい商品も少なくない。また、大手金融機関といえども、収益優先の時代環境のなか、顧客の利害を損ねる商品を販売することもある。金融庁がそこをチェックするというのだが、これが「金融処分庁」への転換につながった。
(以下、本誌をご覧ください)
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